2018年 02月 13日
超気になることが、見つかったので、調べてみました。
うちにこんな本があります。
この中に、「奈良鉄道の遺構」ちゅう項目があります。
ぼんやり読んでたら、気になり出してきたことがあって、ちょっと調べてみました。
事の発端は、京都~伏見の近鉄線の線路は元々国鉄やった。というものです。このこと自体は既知でした。
これが、この本によると、実は、伏見やのうて、丹波橋やったというではないか!!!
伏見やと思ってたし!!!!!
とりあえずは、鉄道会社の名前がややこしいんで、説明をば。
奈良電気鉄道(奈良電)と奈良鉄道というのが有って、奈良電は最終的に近鉄。奈良鉄道は関西鉄道に買収されてから国鉄に吸収される会社だわ。
明治29年:奈良鉄道が京都~奈良間を開通させた。
明治37年:関西鉄道に買収される。
明治39年:国鉄に吸収される。
明治39年に国鉄奈良線開通ですよ!
この開通ルートだが、京都~桃山駅までの路線が今の近鉄の路線と重なることになります。
当時、奈良電(後の近鉄)はまだ、路線は敷設していません。それどころか、そんな会社自体まだ有りませんでした。
年代順に関連事項を述べてみます。
当時の官営鉄道、東海道本線は現在の東山トンネル、逢坂山トンネルという長大トンネルはなく、稲荷の南あたりまで現JR奈良線の路線でもって南下し、ここから名神高速道路のルートで大津に向かっていました。東山を南に迂回して線路を敷いていたわけです。
技術は進むもので、大正10年には東山山塊をぶち抜く長大トンネルが2本も掘られ、東海道本線の新線切り替えが行われて、東山トンネル~逢坂山トンネルルートが開通します。旧線はどうなったか?資料によると、同日に奈良線の路線も変更されて、稲荷~桃山間開通とある。すなわち、「新線切り替えしたら、京都~稲荷の路線は残して、そのまま線路を南下させて、桃山で接続する」ということは、東海道本線新線切り替えの計画の一部として同時進行だったと思われる。伏見稲荷大社という一大観光地への好アクセスを簡単には放棄できなかったのだろうと推測されます。
さあ、この結果、不要になったのが京都~桃山の現近鉄路線。
あっさりと廃止。が、しかし、伏見~桃山の間は、貨物輸送のために貨物営業はつづいていたらしい。伏見が酒処だからか、伏見は大阪からの船便の着く場所だったからか?いずれにせよ、京都~伏見の旅客扱いは、完全に廃止となったけど、伏見~桃山間は貨物路線として存続していたというわけである。
これが、大正10年の出来事。
ここら辺で出現してくるのが、奈良電気鉄道。奈良鉄道のばったもんかい!と思ってしまうし、「電気」がつくかつかへんかみたいな紛らわしい名前を認可するなよ!とも思ったけど、考えてみたら、奈良鉄道という会社は明治37年に関西鉄道に吸収されて消えた会社だから、大正10年の当時としてはややこしくも何ともなかったわけです。
ともかく、奈良電気鉄道は、大正8年に京都と奈良を結ぶ私鉄路線を開通させるために作られた会社のようです。発起人には京阪電気鉄道と関西電気鉄道(これも後に近鉄に買収される)も名を連ねている。「何で、国鉄があるのに、平行して線路敷くの?」と思うが、何せ、当時の国鉄はSLやから遅い!
奈良電は社名にもあるように、電車でもってスピードアップと、ルートを見ればよくわかるけど、一直線に南を目指すその線形によって、所要時間は大幅に短縮できると踏んだのだと想像します。
面白いのは、その建設予定ルート。
なんとなんとの、中書島~奈良。
当時すでに開通していた、京阪の中書島から線路を分岐させて、今の近鉄の路線をず~~と走って最終的には、大仏線の廃線跡を通って奈良にいたろうという計画やったらしい。
ちょっと待て!「大仏線って、かなり東の方通ってるから、かなり無理がある」と思うのだけど、Wikiにそう書いてあるのだから仕方ありません。
さて、この奈良電という会社、なかなかポリシーのない会社で、敷設経路は紆余曲折する。まあ、当時は不況という経済的問題が大きかったのだろうが、新しく建設する路線を少しでも短くしようと、起点は宇治に変更。終点も西大寺に変更。がしかし、よくよく考えてみると、時間短縮を主目的として発足したはずなのに、この経路では距離も長くなって、所要時間もさほど変わらないことが判明(もっとはよ気付よ!)。この頃になってくると不況も好転の兆しを見せ始め、当初の計画通りに再度変更。京都方は、中書島の北で京阪線に合流して、伏見桃山に至る計画となったようです。さらに計画変更!伏見桃山の北で合流するようにする!ま、いずれにしてもその辺で京阪に合流する計画だったようですね。
さあ、伏見桃山から京阪に乗り入れして京都(五条)に向かうという計画ですが、京阪は京阪でたくさん列車を走らせております。そこへ持ってきて、奈良電の乗り入れ列車まで走らせるという余裕は無く、交渉は難航。奈良電は自力で京都乗り入れを検討することとなりました。そこで、目を付けたのが、大正10年に廃止になった旧国鉄奈良線廃線跡だったわけです。
これが昭和2年の話でございます。国鉄奈良線の放棄された京都~伏見のルートは廃止後25年を経て、再び陽の目を見ることとなったわけです。ただし、元の線をそのまま使うことは出来なくて、竹田街道に開通していた京都市電と立体交差するために、竹田以南は高架化されることになりました。
昭和3年にはとうとう、西大寺から京都までが全通することになりましたが、伏見桃山は通らず、新しく桃山御陵前という駅が作られました。
う~ん。。。。何か主題とはかけ離れてきたかもしれない。。。。。
主題は、「旧国鉄を使ったのは京都~伏見なのか、京都~丹波橋なのか?」ということだ。
これ、実は両方正しいということになります。
爆!!!!
「線路」を鑑みてみると、実際に国鉄が敷設した(敷設したのは奈良鉄道やけど)ルートとして奈良電が引き継いだのはやはり、京都~丹波橋(当時は堀内駅と言った)なのです。でもでも、思い出してくれ。当時の伏見~堀内~桃山には未だ列車が走っている。そう、貨物だよ!廃線跡という意味での引き継ぎとしては、京都~伏見が正しい。
ああ。すっとした!!!!
いや、いや、それがさらに興味深いことを発見してしまった!
なんとなんと!近鉄の丹波橋駅って、いっぺん廃止されてるではないか!!!
上記に示す通り、無事に開通した奈良電の線路だが、第2次世界大戦が勃発して、「爆撃されたらやばいのではないか?」という危険性が指摘されたそうです。奈良電と京阪それぞれのどちらがやられても、京都や奈良といったターミナルへのルートが確保できるように丹波橋で相互乗り入れしておけば、何とか別のターミナルへの輸送は可能じゃない?という発想だ。
この名案が実行され完成したのは、戦後。(爆)
間に合ってないじゃん!
意味ないじゃん!
しかも、鉄道輸送網の破壊を目的に爆撃するなら、僕やったら丹波橋を攻撃する。そうすりゃ、2社全滅じゃん!
まあ、それは置いといて、そんなこんなで、奈良電の桃山御陵前のすぐ先から、京阪線に繋がる線路が敷かれ、丹波橋の北側では、それはなかなかトリッキーな線形でもって、奈良電の線路は京阪丹波橋駅に合流することになるわけだ。
線路容量一杯で相互乗り入れする京阪と奈良電。でも、乗客からすれば同じホームで乗り換えできる利便性はなかなかのもので、かなり好評だったようです。
昭和30年頃になると、奈良電の電車の制御電圧が変更になることになる。京阪と同じでないと同じ線路は走れない。さらに世の中は高度経済成長時代を迎え、列車の本数もグングン増える!結果、相互乗り入れのダイヤを組むのも大変!さらに、昭和38年頃になると、奈良電の発起人である京阪と関西電気鉄道(すでに近鉄)の間で、奈良電の取り合いが始まる!
勝者は近鉄!!
京阪としては面白くない!!!!
性能違う電車走らそうとしているライバル会社を何で今更自社の駅を使わせんとあかんねん!!!!こっちはこっちで走らせている電車だけで丹波橋駅一杯一杯じゃ!丹波橋駅一緒に使うん止めてくれや!!!!
となるのも無理はない。。。。。。
近鉄は一旦廃止していた堀内駅の再整備を行って、近鉄丹波橋駅として使用を再開することとなりました。相互乗り入れ時代の末期には京都から奈良方面への優等列車は近鉄丹波橋駅を経由させていたらしいです。
そして、ついに、昭和43年に正式に相互乗り入れと丹波橋駅の共同使用中止が決定されました。
字ばっかりで嫌きちになってきたでしょう?
線形の推移をば示しておきましょうか?
これは、現在の地図に、僕が資料から当時の線形を書き込んだだけですので、ちょっとずれたりはしてますからね。
中央左上方から京阪をくぐりながら丹波橋に向かう近鉄路線がおわかりか?
僕は元々丹波橋(当時は堀内)は経由しなかったと思っていました。絶対その方が自然なラインでしょう?
が、調査の結果、丹波橋(当時は堀内)の南から桃山駅に向かっていたようです。
グレーラインだと思ってたら、赤いラインだったというわけ。
ここから、今回の調査が始まったわけです。(どっちでもええわ!!!とかいわない!)
で、下が丹波橋での京阪との駅共用時期です。
丹波橋駅の北側はというと、緑線のようになっとりました。
で、この間の、元々奈良電だった線路部分は奈良電の丹波橋駅(当時は堀内)と共に、使用が休止されたと言うことです。(桃山御陵前~堀内間は貨物測線として残されていたらしい。)
だいぶんわかってきました。。。。。
地図を見ていると、この丹波橋より南、宇治川までの間の敷設線形がコロコロ変わった理由もわかってきた気がします。
竹田海道の市電と立体交差させるために、高架化されたという話を書きましたが、実はここらにもそういう事情がありました。
まずは、順を追っていこうと思いますが、まずは、お詫びをば。
中書島基点の場合の線形がどうしても判別できません。スイッチバック無しで南を目指すなら、不可能ではないですが、かなりの迂回を強いられてしまいます。思うに、中書島は当時から宇治線も分岐していて、接続する駅としては都合が良かったと机上では判断され、そのまま申請されたのでしょう、その後、こら無理やわ。と変更になったと。。。。知らんけど。。。。。(笑)
それはともかく、その後不況や好景気の憂き目を経験し、宇治経由なんていう訳のわからない案もありこそすれ、最終的には今の線形にほぼ沿う線形となったことは前述しました。
桃山付近での接続予定も京阪伏見桃山だったはずなのに、丹波橋と伏見桃山の間になったり、最終的には自社で京都を目指すことになるという、線形の変移は困難を極めているといっても過言ではない!
なるほど最初はこれ狙ってたのか。。。。。京阪に合流するということが前提なら、とても自然なことだと思います。
さらに、真っ直ぐ行かずに、軽く右にカーブしてみると、伏見桃山と丹波橋の間に合流。なるほど、次はこれを狙っていたのかもしれない。。。。(緑色の線)
そして、またまた地図を見ていると、近鉄線(当時奈良電)の線路は軽く東にスイングしてから丹波橋(当時堀内)に入っていきます。
まあ、京阪線に合流できなかった理由は先にも述べた通り、合流後の京阪線のダイヤが過密になりすぎるという理由で計画が頓挫したわけですが、ここにもなかなかめんどくさい問題があったようです。
さて、そのめんどくさい横やりの話です。
1.宇治川を渡る鉄橋の架橋ポイントが軍の演習地にあたっていました。
と、陸軍がいいました。
橋脚なんかがあると夜間訓練の邪魔やから、場所変えろ!
困りましたなあ。。。。。用地買収も終わってるし、今更経路変更は時間的にも難しいので、橋脚のない鉄橋にしますさかいにそれで何とか許して貰えませんやろうか?
しゃーないのお~。それで許したるわ。
ということで、宇治川を渡る鉄橋は橋脚レスの単純トラス鉄橋が誕生しました。現在でも国内最長の単純トラス橋だと!
2.政府関係者ですけど、桃山には明治天皇の桃山御陵というのが有りまして、この参道を平面交差すること、まかり成らん!
え~~~!!!!京阪や国鉄はしてるじゃないっすか!!!うちだけダメなんっすか?しゃーないなあ。。。。地下化考えてみますわ。
3.あん?地下にするやと?ここいら酒処やねんぞ!地下なんかにして水脈ブチブチにして湧き水なくなったらどないしてくれんじゃ!ちなみに、ワシら酒造関係者やけどな。
ああ。。。そうですよねえ。了解しました。高架にしますわ。ちょうど、丹波橋から五条まで京阪さんの線路走らせて貰うという計画もあかんようになってきてる感じなので、新しく堀内までの高架作らんとあかんのですわ。そっちなら依存はありませんけどいかがでしょう?
おお!そうしてくれるか?
みたいな感じでしょうか?
結果、地図の様に、微妙に湾曲した線形が出来上がったというわけです。
最後の最後に、「昭和天皇の橿原行幸有るから、奈良電やったら直通可能やろ?それまでに開通させろや!」何て無茶振りもされた結果、今の線路が完成したというわけです。
ふう。なかなか、奥深いなあ。。。。。
実は、この辺の遺構も現地には結構残っているようなので、また見に行ってこようと思います。
おわり